L’Atelier du Temps —— 薬種屋の棚に眠る、300年の刻

写真/文: 櫻井朋成
Photo/text: Tomonari Sakurai

転生した空間:スパイスから歯車へ


フランス・ロワール地方、王家の歴史が色濃く残る街ロシュ(Loches)。その一角、ポン通り10番地に佇む建物は、街の記憶そのものである。 1730年に創業されたこの場所は、かつて「薬種屋(Droguerie)」として人々の生活を支えてきた。当時の住民たちは、ここでスパイスやハーブ、砂糖、そして絵画用の顔料を買い求めたという。
300年近い時を経た今、その重厚な木の扉を開けると、漂ってくるのはスパイスの香りではなく、古びた金属と微かな油の匂いだ。壁一面を埋め尽くす当時のままの引き出し——かつて「砕き砂糖」や「ウルトラマリン・ブルー」が眠っていたその場所には、現在、数世紀分の「時間」が分類されている。
ここは、時計師アルノー・ジュベール(Arnaud Joubert)氏が主宰する修復工房である。彼はこの歴史的な「器」を壊すことなく、中身を「時間」へと入れ替えることで、建物に新たな生命を吹き込んだ。

時の守人:アルノー・ジュベールの軌跡


「時計は単なる機械ではなく、その時代の証言者です」
そう語るアルノー氏だが、最初から時計師の道を歩んでいたわけではない。かつてトゥールの大学で学んでいた彼は、ある時、先代の時計師ジル・ヴァッソール(Gilles Vassort)氏と出会い、その深淵な世界に魅せられた。進路を大きく転換した彼は、職人としての研鑽を積み、2008年にプロフェッショナルとしてのキャリアをスタートさせる。
師と共に長年この工房を守り、2020年に正式に経営を引き継いだ。彼の卓越した技術と修復への誠実な姿勢は高く評価され、2016年にはフランス政府から「EPV(Entreprise du Patrimoine Vivant:無形文化財企業)」の認定を受けている。これは、フランスの伝統的技能を継承する、ごく限られた「生きている遺産」としての工房にのみ与えられる最高の栄誉だ。
彼は自らを「時間の旅人」と定義する。16世紀のルネサンス期から現代に至るまで、あらゆる時代のメカニズムと対話できる稀有な存在だからだ。

鉄の規律から、個人の自由へ


工房の作業台を巡ることは、そのまま「人類と時間」の歴史を旅することに等しい。
最も古い記憶を語るのは、巨大な鉄の塊——塔時計(Horloge d’édifice)だ。 17世紀から18世紀にかけて、教会や市庁舎の高みに設置されたこれらの機械は、鐘の音によって都市全体の規律を支配していた。ここにあるのは、1秒を争う精度ではなく、社会を動かすための重厚な「公共の時間」である。

その対極にあるのが、アルノー氏がバイブルとして参照する1737年の理論書『Règle Artificielle du Temps(人工的時間の規則)』だ。ルイ15世の王室時計師ジュリアン・ル・ロワ(Julien Le Roy)らが体系化したこの理論は、300年後の現在でも修復の現場で「正解」として機能している。

時代が下り、19世紀に入ると、時間は冒険と生存のための道具へと変貌する。 工房には、パナマ運河建設に向けた過酷な測量探検(ダリエン探検)で使われた懐中時計が持ち込まれていた。製作したのは、先述のル・ロワの系譜を継ぐ「ル・ロワ・エ・フィス(Le Roy & Fils)」。フランスの時計技術は、パリのサロンだけでなく、熱帯雨林の未踏の地でも探検家たちの命綱として時を刻み続けていたのだ。
さらに、社会の成熟と共に時計は「権利」をも主張し始める。裏蓋に「8時間労働」を掲げた時計は、時間を管理される側の労働者が、自らの自由な時間を求めて闘った産業革命期の記念碑的遺産である。

極小の宇宙、そして未来へ


20世紀、アール・デコの時代が到来すると、時計はさらなる進化を遂げる。 女性たちの手首を飾るために極限まで小型化されたプラチナの時計。塔時計の巨大な歯車を削り出すダイナミックな鉄工仕事から、顕微鏡レベルのパーツを扱う神経外科のような作業まで。その両極を行き来することこそが、現代の修復師に求められる資質である。

アルノー氏は、18世紀の旋盤に現代の電動モーターを組み合わせる柔軟さを持ちながら、最終的な微調整には古来の「弓」を用いた手作業を選ぶ。新旧の技術を自在に使い分けるその指先は、過去の職人たちが残した意図を正確に読み取り、未来へと翻訳していく。

ふと工房の片隅に目をやると、アルノー氏の横で熱心に作業を見つめる研修生の姿があった。 1730年から続く薬種屋の棚。かつて人々の健康を守る薬が並んでいた場所には、いま、壊れた時間を治癒するための知識と部品が詰まっている。
「修復とは、過去との対話であり、未来への手紙でもあります」
ロシュの街角で、アルノー・ジュベール氏は今日も、止まっていた刻を動かし、次の世代へとその針を手渡している。

Horloger Arnaud Joubert

10 rue des ponts, 37600 Loches, FRANCE
Horloger Arnaud Joubert: Restauration d’horlogerie ancienne à Loches

GALLERY

001

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ロシュの街角に位置する工房の外観。白い石灰岩の外壁には「MAISON FONDÉE EN 1730(1730年創業)」および「DROGUERIE(薬種屋)」の文字が、風化しながらも明瞭に残されている。かつて塗料や生活用品を供給した地域の拠点は、現在、時計師アルノー・ジュベールの活動の場として引き継がれている。

櫻井朋成

写真家。フォトライター

フランス在住。フォトグラビュール作品を手がける写真作家。
一方で、ヨーロッパ各地での撮影取材を通じて、日本のメディアにも寄稿している。

フランス在住。フォトグラビュール作品を手がける写真作家。
一方で、ヨーロッパ各地での撮影取材を通じて、日本のメディアにも寄稿している。

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