印刷という名のアトリエで、記憶を刷る

静かな町にひっそりと佇む灰色の建物。その中央に立つ塔は、印刷の四色—紙の白にイエロー、マゼンダ、シアン、ブラック—を空に向かって掲げている。Atelier-Musée de l’Imprimerie、略してAMI。フランス語で「友(ami)」を意味するその名が、この場所の想いをやさしく語る。記憶と技術を、人から人へ手渡すための“アトリエ”として。

パリから南へおよそ1時間、ロワール地方の玄関口。ル・マルゼルボワ(Le Malesherbois)という静かな町に、外観はひときわ大きな産業施設ながら、内部はまるで時間が逆流するような場所がある。Atelier-Musée de l’Imprimerie(AMI)―ヨーロッパ最大級の印刷博物館だ。
なぜこんな田園地帯に、世界でも類を見ない規模の印刷ミュージアムが築かれたのか。その鍵は、敷地のすぐ隣にある、フランス最大手の印刷会社 Maury SA にある。
Le Point、ELLE、Le Figaro Magazineをはじめ、フランスを代表する雑誌が毎日この地から印刷・製本され、全国へと送り出されている。すべてはこの工場で始まり、この工場から世界へと伝わっているのだ。

印刷の歴史を、動かし、体験し、未来に伝えるという理念でAMIは開館

扉を開けて最初に出会うのは、この場所の礎を築いたふたりのまなざし。Jean-Paul Maury(ジャン=ポール・モーリ)氏とその妻 Chantal(シャンタル)。残すべきものは、建物でも機械でもなく、手から手へ受け継がれる記憶そのものだと語りかけてくるように。

この印刷会社を率いるのが、Jean-Paul Maury 氏とその妻 Chantal。夫妻には子がおらず、「人生をかけて育ててきた印刷という営みを、次の世代へ残す形にしたい」という思いから、博物館設立の構想が始まった。そこに加わったのが、印刷技術と職人文化の継承を使命とする非営利団体「Artegraf」。この出会いが、AMI誕生の礎となった。
設立の起点となったのは、フランスの印刷史研究家 Serge Pozzoli 氏による100台を超える貴重な印刷機コレクション。Jean-Paul Maury 氏が1996年にArtegrafを通じてこのコレクションを取得し、数十年かけて修復・整備。そして2018年、**“印刷の歴史をただ展示するのではなく、動かし、体験し、未来に伝える”**という理念のもとに、AMIは開館した。

稼働状態で保存されている歴史的印刷機械の数々

グーテンベルク時代の木製プレス機を忠実に再現した公式レプリカ。当時の印刷物は、42行聖書に象徴されるように文字の列が限られていたが、その手仕事は世界を変えた。ここでは、五百年以上前と同じ仕組みで、いまも紙とインクが静かに息づく。


無数の活字を組み上げた文面に、丁寧にインクをのせてゆく。かつてこの作業に使われたのが、革張りの球形の刷毛〈タンポン〉。すべての文字が、手の動きと呼吸とともに紙に刻まれていた時代の、確かな重みがそこにある。

5,000㎡に及ぶ常設展示、1,000㎡の企画展ゾーンには、活版印刷やリノタイプ、輪転機など、約150台の歴史的印刷機械が稼働状態で保存されている。中にはグーテンベルクの木製プレス機のレプリカから、19世紀の鋳鉄製印刷機、20世紀初頭のモノタイプまでが整然と並び、それぞれの技術が時代とどのように向き合い、変化してきたかを物語る。

「atelier vivant」—生きたアトリエ。それがAMIの真の姿だ。ここで展示される印刷機の多くは、今も実際に動く。毎週開催されるワークショップでは、活字を拾い、版を組み、インクをのせて刷る工程を自らの手で体験できる。展示されるモノが、再び“道具”として息を吹き返す場所なのである。
かつて「大量生産の象徴」だった活版印刷やリトグラフは、いまやアートの領域に足を踏み入れている。

およそ400年の時を経て、印刷機は木から鉄へと姿を変える。19世紀の鋳鉄製プレス機は、強い圧力と精度の高い反復作業を可能にし、印刷の速度と規模を飛躍的に押し上げた。本体にあしらわれたグリフォンの装飾は、知と力の象徴。印刷が文化の礎となってゆく時代の、静かな誇りを物語る。

文豪バルザックは、一時期印刷業に身を投じたことがある。1826年、17 rue des Marais-Saint-Germain に印刷所を構え、自らスタンホープ印刷機を導入し、36人の職人とともに現場を動かした。経営は失敗に終わり、重い借金を背負うこととなるが、その経験は彼に『失われた幻想』を書かせるきっかけを与えた。「文学の人間は、鉛の文字の人間に取って代わられた」—活字と文学の間で揺れた男の短くも濃密な時間が、ここに静かに刻まれている。

洒落者のたしなみは、首元の結びに宿る。1828年にパリで出版されたこの指南書は、千一通りのネクタイの結び方を十八のレッスンに分けて伝授する。印刷を担ったのは、若きバルザックの短き職人時代。その紙面には、流行を文化へと変えようとした野心が刷り込まれている。

熟練の職人たちとともに自分だけの作品を刷り上げる

活版印刷が主流だった1950年代まで、印刷はすべて手作業で組まれていた。フランス語では、文字の書体やスタイルを「ポリス(police)」と呼び、活字はその書体ごとに、サイズ別に整然と引き出しに収められていた。日本語と違ってアルファベットは文字数が少なく、こうして一つの書体が一揃いで管理されていたのだ。ここでカルロスが選んでいるのは、数ある“ポリス”の中の一文字。文字がまだ“物質”だった時代の記憶である。

使用する書体とサイズの活字が収められた引き出しを選び、原稿に合わせて一字ずつ拾っていく。この作業を「植字」と呼ぶ。整然と並んだ文字たちは、やがて一つの版となり、紙の上に物語を浮かび上がらせる。奥に吊るされたカラフルな紙片は、このアトリエで開かれるワークショップで来場者が刷り上げたもの。手で刷るという行為が、いまも誰かの記憶を刻んでいる。

植字に使われる「スティック(composing stick:フランス語ではle composteur)」と呼ばれる道具に、拾い上げた活字を一文字ずつはめ込んでいく。原稿通りに組んでいくが、活字は印刷時に転写されるため、すべて左右反転で並べなければならない。しかも文は左から右へと読ませる。つまり、鏡に映る文字列を左から組んでいくという、身体に染み込んだ職人の直感が必要とされた。そこには、無言のリズムと視線の記憶が宿っている。

この場所では、自分だけの一枚をつくることができる。例えば、記念の詩や名前、絵柄、あるいはブランドのモノグラムを、19世紀の印刷機で活版印刷するオーダー。あるいはリトグラフや銅版画による一点もののポスターや作品。依頼者の意図と感性を汲み取りながら、熟練の職人たちが寄り添い、ともに作品を刷り上げる。
その様子はまるで、オートクチュールのアトリエでデザイナーとプルミエが生地を囲んで語り合う姿に似ている。量産品ではなく、「これだけ」のものを、「この人」とともにつくるという価値観。唯一無二性(Unicité)こそが、ここでの印刷をラグジュアリーたらしめている。

印刷の歴史を文化的背景にも目を向け展示

印刷の歴史を機械の変遷だけでなく、実際に印刷された書籍によって辿ることができる展示も充実している。ここには、古くからの物語集や教本、図解入りの書籍など、活版・石版・凹版といった多様な印刷技術で作られた本が並び、時代ごとの印刷文化の深まりを物語っている。

奥の壁面には、時代や方式の異なる数多くの印刷機が上下二段にわたってずらりと並べられている。それぞれの機械には異なる役割と構造があり、ここに来れば印刷技術の進化を一望することができる。まるで印刷機の図鑑を立体的に見ているかのような展示だ。

デザインや原稿作りが個人の手に委ねられるようになった現代。パーソナルコンピュータの登場がその流れを決定づけた。なかでもAppleのマッキントッシュは、その直感的な操作性とグラフィック環境で印刷・出版の現場を変えた存在だった。ここには歴代のMacが展示されている。あなたが初めて使ったMacは、どのモデルだっただろうか。

さらに興味深いのは、印刷の文化的背景にも目を向けた展示だ。
14世紀まで紙が一般的でなかったヨーロッパに対し、日本では平安時代以前から和紙が生活のあらゆる場面に用いられてきた。日本ではフランシスコ・ザビエルにより伝わった活版印刷が、木版文化や漢字の複雑さゆえに広まらなかった一方で、ヨーロッパでは活版印刷が宗教、学問、政治を推進する「知の爆発」を引き起こした。
ここAMIには、そんな文化の交差点としての印刷の歴史が、技術と物語とともに編み込まれている。
そして何よりも、この場所で実感できるのは、「伝えること自体が、最大の贅沢である」ということ。

ただ情報を届けるのではない。時間をかけ、手をかけ、感情と記憶を込めて、紙に刷り込む。それはスマートフォンのタップでは決して得られない感触であり、いま最もラグジュアリーな行為のひとつと言ってもいいだろう。
ここで過ごすひとときは、過去を回顧する旅ではない。未来に残したい想いを、紙とインクに託す時間なのだ。

Atelier-Musée de l’Imprimerie
70 avenue de l’Europe, 45300 Malesherbes, France
https://www.ami-malesherbes.fr/
※事前予約をおすすめします。企画展やワークショップの情報も随時更新中。

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AMIでは、印刷だけでなく、紙作りから体験できるのも魅力のひとつ。牛乳パックなどの再生素材を細かく粉砕し、水に溶かしてから紙漉きするプロセスは、まさに原点に立ち返るもの。こうした手作業による紙づくりのワークショップは、子どもたちにも大人気だ。壁には製紙工場の歴史的な写真も掲げられ、手仕事と産業の両方の視点から紙の魅力を学ぶことができる。

櫻井朋成

写真家。フォトライター

フランス在住。フォトグラビュール作品を手がける写真作家。
一方で、ヨーロッパ各地での撮影取材を通じて、日本のメディアにも寄稿している。

フランス在住。フォトグラビュール作品を手がける写真作家。
一方で、ヨーロッパ各地での撮影取材を通じて、日本のメディアにも寄稿している。

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