写真/文: 櫻井朋成
Photo/text: Tomonari Sakurai
京都・二条城のほど近く、静かな町家の一角にその工房はある。創業1924年、橋本甚蔵商店。儀式・神事・祭礼などで皇族・神職・僧侶の方々がお召しになる履物・和沓・宗教沓を手がける専門店である。
同店は100年以上にわたり、伊勢神宮の式年遷宮や各大社・神社など、数多くの重要な神事に履物を納めてきた。即位の礼に際しても、橋本甚蔵商店の御沓が用いられた実績があるという。伝統をただ守るのではなく、その「用いられる場」にふさわしい品を、一足ずつ仕立て続けている。
三代目当主・橋本ご夫妻。のれんの前に立ち、受け継がれる伝統と誇りを静かに物語る。
格子戸をくぐり、通されたのはほのかに漆の香りが漂う作業場。迎えてくれたのは三代目当主の橋本氏。工房の歴史や、履物づくりの大まかな工程を丁寧に説明してくれたあと、実際の作業風景を見学させてもらうことになった。
入り口を入るとまず目に飛び込んでくるのは、「京の神祇装束調度品」として京都府から伝統工芸品に指定された誇りの証。橋本甚蔵商店が長年培ってきた技と格式が、静かに来訪者を迎える。
「滑らない」ための底を縫う
出頭沓の靴底を縫い合わせる作業に集中する若き職人。表からは見えない部分にこそ丁寧な手仕事が求められる。伝統の技は、こうして次の世代の手に着実に受け継がれている。
滑り止めの革を縫い付けていく細かな手作業。瓦敷きの法堂の中で履かれるため、出頭沓の靴底には実用性と美しさを兼ね備えた工夫が施されている。
使用されるのは「三角針」と呼ばれる特殊な針。畳を縫う際にも用いられるもので、厚い革底に貫通させるためには力と正確さが求められる。指先に集中する力が、そのまま仕上がりの美しさへとつながる。
最初に案内されたのは、出頭沓を縫う作業だった。沓の本体に、革の靴底を手縫いで取り付けていく作業。特徴的なのは、かかとやつま先に貼られる斜めの革片――これは、寺院の法堂で履くため工夫された滑り止めだという。
「見えないところにこそ手をかける」という日本の美意識が、まさにここに宿っている。
黒漆を何度も塗り重ねる
浅沓に漆の下地を丁寧に塗り重ねていく工程。刷毛の動きひとつで艶や仕上がりが決まるため、集中力と均一な手さばきが求められる。漆塗りは浅沓づくりの要ともいえる大切な作業だ。
最終工程となる漆の仕上げ塗り。塗装面に直接手が触れないよう、内部には“つくう”と呼ばれる道具を差し込み、履物を安定させて作業する。艶やかな表面を損なわぬよう、細心の注意が払われる。
漆塗り作業に欠かせない“つくう”。履物の内部に差し込み、塗装中に本体へ手が触れないよう固定するための道具。竹や木で作られ、使い込まれた表情から長年の手仕事の歴史がにじむ。
奥の部屋では、漆塗りの工程が静かに進められていた。ある職人は刷毛を手に、浅沓の表面に黒漆を塗っていた。塗っては乾かし、研ぎ、また塗る――その繰り返しでようやく漆の奥深い艶が現れる。
さらに別の若い職人は、仕上げの漆塗りを行っていた。作業中に履物を手で持つことはできないため、つくうと呼ばれる道具を内部に取り付けて安定させながら慎重に塗りを重ねていく。その手元は驚くほど落ち着いており、緊張と集中が空気を張り詰めさせていた。
仕上げ塗りを終えた漆面に付着した微細な埃を、鳥の羽軸から作られた専用の道具で丁寧に取り除く。艶やかに仕上がった表面には職人の顔が映り込むほど。完璧を目指す最後の一手に、静かな緊張感が漂う。
漆を塗り終えた浅沓は、一定期間湿度を保った棚で乾燥させる。漆は湿気を吸って硬化するため、乾燥工程には適切な湿度管理が欠かせない。特に梅雨時は自然の湿気が得やすく、乾燥に最適な季節とされている。
最終仕上げでは、漆面に付着したわずかな埃を取り除く工程もある。羽軸を加工した専用の道具で、まるで羽根ペンのように繊細に埃だけをそっと掬い上げる。まさに「仕上げの中の仕上げ」と呼べる仕事だ。
多彩な製品と格式に応じたかたち
橋本甚蔵商店では、以下のような多様な履物を制作している:
艶やかに塗り上げられた赤と黒の浅沓(あさぐつ)。神職の階級や儀式の内容に応じて使い分けられるこれらの履き物は、見た目の美しさのみならず、身にまとう者の位を静かに物語る重要な装束の一部である
-浅沓(あさぐつ):平安時代以前より高貴な方が履く履物。塗り沓。素材は木・革・和紙・樹脂等時代により作り手も素材も変化を遂げている。
《出頭沓 筋入り黒》 い草を使用し、黒毛氈を重ねた儀式用の履物。つま先には白の淡路結び組紐を飾り、側面には雲をかたどった模様が施されている。主に臨済宗における儀式や法要に用いられ、静謐と格式を備えた意匠が特徴。
-出頭沓(しゅっとうぐつ):臨済宗法堂で使用する儀式沓。生地は、い草に赤・黒の毛氈を施している。意匠は大陸よりの流れにより靴の先が反り返ったかたちになっている。
《本絲鞋(ほんしかい)》 舞楽を舞う舞人が装束とともに履く正式な履物。絹糸を丁寧に編み上げ、左右対称に菱形の紋様を施す。足首は組紐で結び、裏底には鹿革または牛革が用いられる。軽やかさと格式を兼ね備えた機能美の象徴である。
-本絲鞋(ほんしかい):木型に絹糸で一目一目組み上げ製作。舞人や皇族方の履物
靴の沓は、皇族男性・武官・文官等が衣冠束帯、装束着用の正装時に履く履物。上部に靴氈錦で覆い、靴帯金具を足首に装飾。
-靴の沓(かのくつ)衣冠束帯、装束着用の折に履く履物。天皇陛下即位礼にも使用
これらの履物は、履く人の立場や場面に応じて形状や仕様が厳密に使い分けられており、橋本甚蔵商店はそのすべてに対応できる専門的な知識と技術を持つ、数少ない工房である。
伝統を受け継ぐ、若き職人たち
漆を塗り重ねる繊細な手仕事を担うのは、若き職人の確かな手とこの笑顔。彼女の姿を見ていると、日本の伝統工芸の未来が明るく照らされていることを実感する。
驚いたのは、これらの作業を行っている職人たちがみな若かったこと。伝統工芸の現場というと、年配の熟練者が黙々と作業をこなす風景を想像しがちだが、橋本甚蔵商店では、次代を担う若手が中心に立ち、技術を継承しつつある。
漆や和紙、木と革という自然素材を扱う世界に、若い手が入り込んでいる。その事実に素直にうれしさを覚えた。
烏帽子にも見る「進化する伝統」
橋本甚蔵商店では、履き物だけでなく僧侶が用いる“烏帽子(からすもうす)”の制作も行われている。素材選びから仕立て、仕上げまで一貫して手作業で行われ、格式にふさわしい品格が生まれる。
烏帽子の制作に取り組む職人の手元。寸分の狂いも許されない型紙合わせは、経験と感覚の積み重ねによって支えられている。手仕事の温度と緊張感が伝わる瞬間。
依頼主が長年使用してきた古い“烏帽子”。橋本甚蔵商店では、こうした実物を丁寧に解体・採寸し、同様の構造と意匠を持つ新しい帽子を仕立てる。伝統の継承と実用の再構築が交差する作業である。
烏帽子の内張りに使われる文様織の布地。鳳凰と雲を組み合わせた意匠は、吉祥と荘厳さを象徴し、儀式にふさわしい格式を備える。見えない部分にも美しさと意味が込められている。
新たに仕立てられた烏帽子と、その外装に用いた文様織の布。鳳凰と雲が織り込まれた上質な絹地は、僧侶の法衣にふさわしい荘厳な気配を宿す。素材から意匠まで、すべてに意味と格式が込められている。
この日、工房の別室では浅沓以外の仕事も進められていた。それは僧侶が被る「烏帽子」の制作。古い実物を解体し、構造を学びながら新しい一品を仕立てていく工程だった。
ただの復元ではなく、現代の使い手が快適に使えるよう、微妙に仕様を調整するという。伝統の形式を守りながらも、実用性や美しさを更新していく姿勢は、まさに「今を生きる工芸」のあり方そのものだった。
足元から支える祈りの文化
最後に見せてくださったのが、この美しく磨き上げられた一対の《塗り沓》。神社のご神宝の沓である。丸く削り出した独特のつま先の形状には威厳と静謐さを象徴する意味が込められており、深い黒漆に包まれたその姿はまるで沈黙の中に佇む祈りの器のようでもある。
橋本甚蔵商店の履物は、ただの伝統品ではない。それは、儀式の場を支える道具であり、そこに立つ人の姿勢をも整える存在である。
漆の艶、革の縫い目、底の意匠――そのすべてが静かに、だが確かに、日本の祈りのかたちを今に伝えていた。